■ 近江商人 藤野喜兵衛

呉服屋見習から独立し、そのかたわら北海道にて廻船業も経営していた近江商人の一人。喜兵衛は、この太郎右ェ門常実の子孫にあたる。 藤野喜兵衛の二代目が四郎兵衛良久(次ページ 次ページ「またもや焼失 ─そして再建」に登場)にあたる。

豊会館豊会館」ページにて藤野家紹介

千樹寺の焼失と再建

通称「観音堂」と呼ばれるこの寺は、奈良時代に僧の行基によって創建された江州四十九院の一つでもあり、大昔は、比叡山延暦寺の末寺で天台宗であった。
日吉山王社を祀っていたところから、「日吉山 千樹寺」と名付けられたのである。

現在の日吉山千樹寺

遡ること、永禄・元亀の頃。
観音寺城主・佐々木善賢(13代目 六角佐々木家当主)父子(天台宗派)と織田信長との争いにより、永禄十一年(1568年)、千樹寺も焼失した。

「本能寺の変」から4年後の天正十四年(1586年)、当地に住む近江商人・藤野喜兵衛の先祖にあたる太郎右ェ門常実が、浄財を投じて信長の兵火によって焼失した千樹寺を再建したのである。
寺の竣工にあたり遷仏供養が挙げられたのは、七月十七日(旧暦)であった。

住職が編み出した余興

当日、遷仏供養の余興にと住職 根誉上人は、仏教に因む造り人形を境内に多数陳列し、更には仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集めて円陣を作らせた。
住職自ら、

「羯諦羯諦波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩堤薩婆訶」
(往き往くこと於いて彼の岸に往き着きて悟りは完成せり)

等と、経文の二、三句を節面白く繰返し歌いながら、手振り足振り揃え、集めた村人と共に踊った。
それを見た来観の群集もあまりの楽しさに我も我もと円陣に加わり、ついには夜がふけるのも忘れて、皆で踊りあかしたという。

これが発端となり、それ以来、毎年七月十七日(旧暦)になると千樹寺では、この踊りの催しが行われた。

▼郷土芸能として保存される「江州音頭」
郷土芸能として保存される江州音頭

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