■ 新江州音頭

近年になり、「江州音頭を更に民衆化し、親しみ易い、誰にも愛される民謡としたい」との要望から、民俗芸術研究の権威者である故 並岡龍司氏が豊郷の当地を踏査し、その創作に取り組まれ、郷土色豊かな近代的感覚のメロディである「新江州音頭」が生まれた。

またもや焼失 ─そして再建

しかしながら、天明年間(1781〜1789年)に下枝地区も大火に遭い、千樹寺はまたもや灰燼に帰すこととなる。

今度は、北前船で活躍した近江商人2代目の又十 藤野四郎兵衛良久が、亡父の遺志を継ぎ、海上の安全や漁族の慰霊祈願も込めて浄財を投じ、千樹寺の再建に取り組んだ。
そして、その遷仏供養も昔からの習慣の通り、七月十七日(旧暦)に行うこととなった。

四郎兵衛良久は、この遷仏供養の際に、八日市に祭文語りの第一人者である桜川雛山の弟子、「歌寅」こと西沢寅吉(後の初代桜川大龍)という祭文作りの名人がいることを聞き、私宅に招き、経文祭文を採りいれた一般民衆向きの音頭を作らせた。

当日、この音頭に節をつけて歌わせ、更には光彩を添える為に絵日傘や扇を与えて踊らせたところ、集まった人々は、”踊らにゃ損”と音頭にのって踊り明かしたという。
以前にも増して興は加わり、人気はいやが上にも高まった。

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[ 写真/資料提供 ] 大字下枝

評判と共に広まる江州音頭

評判が評判を呼び、美濃や伊勢にも広まり、『江州音頭』という呼び名が定着するようになったのである。

やがては、本来の祭文の意義も徐々に豊作祈願へと変わり、各地で盆の恒例行事となるに従い、「恋物語」から「軍記」、「出世もの」、「お国自慢」…と演題もみるみる増えて行く。
娯楽に乏しかった当時の人々にとって、この上ない”楽しみ”でもあり、また厳しい時代を生き抜く”力の源”でもあった。

そうして幾世代にも渡って受け継がれてきた数々の記録が、この地、豊郷には保管されている。

江州音頭の古い記録

江州音頭の古い記録

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[ 写真/資料提供 ] 大字下枝

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